ESDとは

一般的な邦訳は、持続可能な開発のための教育。Education for Sustainable Developmentの頭文字をとって、ややロゴ的にESDと使われる。 1980年頃から、地球の持続不可能性が、環境汚染、エネルギー問題を中心に警告されるようになり、経済・開発と環境保全・エネルギー保存の調和、すなわち持続可能な開発の重要性が、主に国際社会において指摘されるようになる。

しかし、この理想の実現は、簡単ではなく、外交問題、人権問題、健康問題などを含む、現代の、およそありとあらゆる社会的課題の解決なくしては、進まない。1990年代に入り、大量生産・大量消費を煽る経済の論理を抑制するには、あらゆる地球市民が、欲望を煽る経済社会に対して批判的意識をもち、持続可能性という価値の重要性を認知し、自らのライフスタイルを変えていく、という全地球的な教育運動が必要であることが指摘されるようになる。

そこで、20世紀末から21世紀にかけて注目されてきたのが、ESDである。ESDを受け皿として、学校のみならず、それを含む社会の多様な教育的機能が総合化され、それ自体の変質・変容を伴いながら、持続可能性を尊重する社会づくりの担い手として人間・コミュニティが変化することが求められるようになってきた。

ESDは、従来の環境教育、開発教育、起業家育成学習、福祉教育、人権教育、健康学習、伝統文化保存学習、レクリエーション学習、アート教育など、ありとあらゆる教育的活動が総合化されることが期待されている。つまり、逆にいえば、学習者は、多様な入口からESDの世界に入り、総合的に学ぶことが、ESDの要件である、といえる。図1は、それを描いたものである。

また、ESDは、市民・消費者・生産者を対象とする教育だけではなく、科学者育成、専門職育成の根底にも位置付けられなくてはならない。専門家・リーダー自身も、これまでの社会的価値を批判的に乗り越えて、持続可能性を尊重する社会への理解を深めなくてはならない。それゆえ、初等教育の教養的な柱というだけではなく、むしろ、中等教育・高等教育の質的な変化をもたらす運動を含む包括的な教育がESDである。ユネスコは、ESDの推進の軸を、フォーマル教育としての学校と、地域における生涯教育の推進母体としてのRCEとに定めている。この両軸から教育全体の変化が生まれ、社会づくりの方法論が、持続可能性を土台としたものへと変化することが期待されるのである。

ESDが現代社会に突き付けるのは、近代から現代にかけて発展してきた生産力重視・効率性重視の発展・開発論の転換であり、あるいは、人間の現世における幸福追求から、いのちが長い時間のなかでつながっているものとして捉える中での幸福追求を重視する傾向への変更である。一人ひとりの命の重みと共に、多くの生き物の命の大切さを尊重すること、および、多くの過去の命とのつながりのなかで生かされているというつながりとしての命に感謝すること、こうした価値が高まることを、われわれに突き付けている。いわば、<いのちの持続性>と呼ばれる新しい価値の探求がESD推進のなかで沸き起こることが、今日、期待されているところのものである。

こうした新しい価値の創成を伴うESDを実質化するには、どのような具体的な取組みが必要なのであろうか。その問いに迫るために、世界中、さまざまなフィールドにおいて実験が試行されているが、たとえば、RCE兵庫-神戸の場合は、多様な活動の出会いの確率を高める「つなぎ実践」に注目している。しかし、そればかりではなく、学習者が、学習コミュニティのなかで多様な社会的課題をどのように総合化させ、どのような意識・行動の変化に至るのかに注目した実践もあるし、社会的な変化に関与する力を市民としていかに育成するのか、という観点での実践や、抑圧されている人間の解放プロセスと持続可能な社会づくりとを関連付けた実践的な試みもある。いずれせよ、ESDは、実践開発の途に就いたばかりであり、教育・社会運動の新領域ということができるであろう。

そして、それゆえに、このESD推進の課題を探究するには、実践集団・研究集団の有機的な連携または再融合が求められることとなる。大学・学校・企業・NPO・行政などのステークホルダー(重要な関係者)の集合体(マルチ・ステークホルダーズ・ネットワークまたは、マルチ・ステークホルダーズ・コミュニティと呼ばれる)をいかに組織化するのか、という、組織論的な問いも重要になる。

ESDは、組織化・実践化の過程で、概念がいかようにも変化する軟体系の概念といえるかもしれない。

以下も参照下さい。
文部科学省のホームページ
ESD−Jのホームページ